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「思想テロとしての秋葉原事件」

 

講談社PR誌『本』2008年9月号所収(一部加筆)

橋本努

 

 

 「起こるべくして起こったのではないか。」

去る六月八日、秋葉原で一七人の死傷者を出した無差別殺傷事件が起きたとき、批評家たちはまるで口を揃えたかのように発言していた。格差が深刻化する現代社会において、負け組はいずれ勝ち組に反逆するのではないか。事件は、もっとはやく起きていたとしても不思議ではない。派遣社員たちの不満や憤りはそれほどまでに積もっている、というのが事件後の論調であった。

「勝ち組なんかみんな死んでしまえ」と携帯サイトに書きこんだのは、二五歳の派遣社員。彼は人生の「絶望」を抱えて「欲望」の象徴たる秋葉原へと向かい、周到な計画の下に無差別テロを遂行した。格差社会の軋(きしみ)のなかで、負け組が勝ち組を粛清するというその凄惨な企てに、人は誰しも震撼したのである。

絶望に打ちひしがれた者が、欲望に肥えた者たちを制裁する。そんな身勝手な行為を許せるはずがない。けれども容疑者の行為に対して、「共感できる」とネットに書きこんだ人たちも少なからずいた。人々の同情を誘うほど、秋葉原の事件は、負け組の憤懣なるものを代弁していたのだった。

いったい派遣労働とは、どれほど自尊心を傷つけるのか。「作業場行ったらツナギ(作業着)がなかった 辞めろってか」と、容疑者は携帯サイトに書きこんでいる。彼は六月末までで雇用を打ち切られたというが、その理由はしかし、決して個人の資質の問題ではなかったようだ。おそらく景気の見通しが立たなくなったのであろう。そうなれば最初に減員されるのは派遣社員から、というのも想像に難くない。しかも企業側が提供する寮で生活している派遣社員が寮を追い出されてしまっては、最悪の場合ホームレスになりかねない。こうした不安定な処遇は、やはり制度上の問題といえるのではないか。

むろん、セーフティネットが整備されるべきなのであるが、それでも不安定な労働者たちの苛酷な状況は変わらないかもしれない。雑誌『世界』(2008年8月号)の座談会で小林美希氏が述べるように、派遣社員は、たとえ正社員になれたとしても、長時間労働を押しつけられ、派遣とは違うかたちで使い捨てられる可能性がある。彼らにとって勝ち組とは、もはや憧れの対象ではなく、恨み・辛み・妬みの対象になる、というのも頷けよう。

だが本当に勝ち組を制裁したいのなら、秋葉原ではなく、例えば新興富裕層の象徴たる六本木ヒルズをターゲットにすべきではなかったのか。秋葉原に集まるオタク文化の担い手たちは、決して勝ち組の代表とはいえない。秋葉原とはサブカルチャーの発信地であって、リアルな社会において自己実現できない人々が、幻想的な文化を作り上げる拠点とみなされている。オタク文化の本質とは、アニメ少女で代償機制を働かせる現実逃避型の欲望であって、現実の社会を謳歌する勝ち組の文化とは、異質なものではないか。

 ところが衝撃的なことに、容疑者にとって勝ち組の象徴とは、秋葉原のサブカルチャーなのであった。目の眩むようなオタク・グッズに溢れ、萌え系ファッションの少女たちが楽しそうに歩く街。現実と仮想が入り混じり、人々の欲望をファンタジーへと無限に肥大化させていく街。そんな秋葉原の空間こそ、容疑者にとっては「カネのある人たち」にしか享受することのできない、オアシスなのであった。

 事件が問いかけているのは、「オタク文化の旨み」を妬む、派遣労働者の貧困という問題である。私たちの社会には、サブカルチャーに興じるフワフワした生活がある一方で、対照的に、そのフワフワ感を享受することすらできない生活がある。この二つの生活は、現代人の欲望の格差をいかにも象徴している。

 イデオロギー的に捉えれば、対立は「ひ弱なリベラリスト」と「プレカリアート」の間にあると言えるだろう。「ひ弱なリベラリスト」とは、とくにリベラリズム(自由主義)を支持するわけではなく、思想信条的には軟弱であるのだが、誰からも干渉されずに、自分だけの仮想空間に興じたいと思っているような人々である。ある程度の生活水準を維持できるのなら、現代の社会を基本的に肯定した上で、趣味に没頭する人生こそ理想とみなす人もいるだろう。

 対して「プレカリアート」とは、不安定で低収入の下層労働者であり、格差社会に不満を抱く人々だ。彼らは自身が、「新自由主義」と呼ばれる弱肉強食イデオロギーの犠牲者だと認識し、ただ使い捨てられていく労働に絶望を感じている。職場ではいつになっても「半人前」とみなされ、名前すら呼んでもらえない。派遣社員同士で団結すればよいと言われるかもしれないが、自己の存在そのものを否定されたような労働では、深い孤独を強いられてしまう。

 孤独なプレカリアートにとっては、もっぱら携帯電話がコミュニケーションの道具となっている。秋葉原事件の容疑者は、朝起きてすぐに携帯サイトに書きこみ、電車やバスに乗る道程でも、乗ってからも、工場を出てからも、コンビニで買い物をするときも、書き込みをしていたという。通話はほとんどゼロ。仕事と寝る以外は、携帯通信の生活であった。

 こうしたプレカリアートが「ひ弱なリベラリスト」たちの生活を妬むとき、その憤懣はもはや、制度変革への希望には結びつかず、「思想テロ」の様相を帯びてくるのではないか。これまで多くの人々が、格差社会を克服しようと知恵を絞ってきたにもかかわらず、格差を縮小するための改革は、遅々として進まない。格差社会はやはり、逃れがたい現実なのではないか。そんな絶望感が蔓延するなかで、プレカリアートたちの反逆は、フワフワした生活者たちを混乱に落とし入れるという、アナキズム(反秩序主義)へと向かう可能性がある。

 ではアナキズムの本質とはなにか。それは「思想テロ」あるいは「啓蒙テロ」といえるだろう。例えば2001年9月11日、ニューヨークとワシントンで起きた同時多発テロは、IT産業で世界の頂点に立ったと浮かれるアメリカ人の生活を、自省させるという啓蒙の効果をもっていた。思想的にみて、9・11事件と秋葉原事件に共通しているのは、ポストモダン社会を謳歌する人々に、テロリストが覚醒的な自省を促すという効果である。豊かでフワフワした生活者たちに、「浮かれていていいのか」と突きつける。その反省(=啓蒙)の効果は、すでに不可能となった近代的啓蒙の企てを代行しているとみることができよう。

 ここ三〇年のあいだに、思想界は、モダン(近代)思想からポストモダン(脱近代)思想へと旋回してきた。モダンの思想とは、低次の欲求を克服して、すぐれた理性と市民的教養を身につけることを理想としている。ところが現代のポストモダン思想は、そうした近代的啓蒙を忌み嫌い、知の快楽と欲望のサブカル化を謳歌している。現代のポストモダン人は、成熟した大人になるための啓蒙を拒絶して、幼稚な知性をそのまま肯定する。「フワフワとした生活でいいじゃん。なんでこの生活が否定されなければならないの?」と素朴に問う。実にポストモダン思想は、フワフワとした生活を楽しむ人々に対して、心地よい自己肯定の感情を与えてきたのだった。

こうしたポストモダン人をその驕りから目を醒まさせるものは、いまや近代の啓蒙理性ではなく、象徴的なテロリズムによって与えられるのではないか。秋葉原事件とは、そのような啓蒙テロであったといえるだろう。テロリズムが啓蒙理性の役割を代行するという事態に、私たちは時代の病を診るのである。

 だが、時代の病を克服する道はある。啓蒙の企てを、もう一度「イデオロギー批判」というマルクスの伝統に立ちかえって、試みることだ。ポストモダン派は経済思想を軽視した結果、現代のイデオロギー状況を捉え損ねている。拙著『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)で試みたのは、現代のイデオロギー地図を、経済社会の問題に即して描くことであった。読者は自分がどんなイデオロギー意識を抱いているのか。改めて考えるキッカケとなれば、幸いである。

 

(はしもと・つとむ 北海道大学准教授、経済社会学・社会哲学)